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3月と確定申告と7年前のこと [日々生活]

今年も確定申告が終わった。
昨年何をやっていたかを思い出し、考えながらまとめるので時間がかかるけれど
e-taxはしないことにしている。
税務署に出向き、職員さんに判を押してもらって「ご苦労さまです」と
言葉をかけられるのが自分の中でのなんとなくの儀式。
勤労と納税の義務が国民の義務のうちの2つ。
社会での義務って何?義務を果たすって何?と。
義理を果たすことのほうがしっくりくるとふと思ってみたり。

それはさておき
7年前の2011年3月15日、私は今年と同じように税務署に向かっていた。
マスクをしサングラスをかけて花粉症対策しながら歩いていた。
「やけに光が眩しい」そう思いながら
4日前に起きた東日本大震災の影響で、仕事がキャンセルになったり
人通りが少なくなったりしていたことに
有事であることをひしひしと感じていた。

多分いろんなものが飛んでいたのだと思うのだけど
あのキラキラと乱反射したようにみえる光と、風の強さを今でも忘れない。
こんな時でも延滞しないで確定申告に行くってことが
大きな自然に揺さぶられながらも社会は動いていると、何とか自分の精神が
平静を装おうとしているのか、自分でもよくわからなかった。

いつもギリギリにしか税務署に提出に行かない私は
いつもの年のようにギリギリに申告書類を提出して、職員さんに判を押してもらい
「ご苦労さまでした」と声をかけられることで
日常を取り戻そうとしていたのかもしれない。
帰りに珈琲を飲んで家に帰ったのを覚えている。

あれから7年。私自身はそんなに変化はない。
自分のやりたいことをやり、やりたくないことは極力やらず
多少戦いながら、妥協もし、
周りにいる人たちが楽しく生きているのを見て、私もそうありたいなと思う。


昨年、確定申告で税務署に行った帰りにビーガンカフェに寄った。
そこのランチが野菜たっぷりでその野菜をたくさん食べたくなったから。

食べていた時に、お店の女性とお客さんが個人事業主とわかり、
私が「確定申告を今してきたんです」と話すと「そうですか。おつかれさまです!」と
2人から声をかけられてなんかやけに嬉しかったのを覚えている。

昨日はまだ確定申告が終わっていなかったんだけれど、
久しぶりにそのカフェに行ってランチを頼んでそれを頂いていたら
「去年確定申告が終わったって、いらして頂いたお客様ですよね」って言われて。
あの時の女性のスタッフさん。
よく覚えていたなあと感心して、そこからまた税金と個人事業主の話。
今年はまだ終わってないんです、これからなのと言うと
私もなんです。がんばりましょ。
って2人で気合いれた。

小さいことだけど、また来年の確定申告の時に思い出すのかもしれない。

これから三寒四温で春に向かって行く。
桜は開く準備を整えている。
3月はそんな季節。

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理にかなう [日々生活]

昨年は冬眠モードだったこともあるのか
ふと、この1年くらい身体に無理をかけなくなったと感じる。

別に病気をしたとかそんなことはないんだけれど
気持ちだけでは進めない、進んではいけないと感じるようになった。

これまで通り無理をしても、多分無理できると思う。
120%で走り抜くことが一時的にはできる、きっと。
でも、それはしてはいけないと自分の奥から声がするような気がした。

無理は理性が無い、と書く。理屈が無いとも言える。
理知的でないとも言える。
若い頃は理がなくても許されることもある。
勢いで理を吹き飛ばすことだってある。
でも、歳を重ねるってそういうことじゃない。
理を知り、それを賢く使うこと。それが智恵になる。

無理をしないということは怠けることや惰性でやることとは違う。
自分の全力を尽くすことと同じこと。
でも自分の中の道理って何かを知ること。

その無理しない状況から出てくるいろいろな何か。
音楽やいろいろと変化が始まっている。
自分、もっと聴かせてよ、と思う。
もっと自由になれそう。
今年はそういう年。

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2月・如月・音の律 [日々生活]

先週の連休は2日連続のライブ。

このところライブでピアノを弾いてる時、前より自分の音が繊細に聞こえるようになってきた。
自分の出している音、今までだってもちろん聞いていたし、聞こえてきていた。
でも、最近は音を出した瞬間、その音の情報を受け取って身体が反応する、みたいな感じ。
一方で一緒に音を出している人たち(バンド等)のその音の情報量があまりにも多くて
うわって思ったり、受け取ってから反応するまでがもっと早くなってくれて、
しかも音が先まで見えればーこうするのにと考える間にどんどん曲は進む。

さすが時間芸術の音楽。時間は止まってくれないのと同じで音楽も止まってくれない。
相変わらず音楽は気持ちいいけれど、自分を簡単にいい気持ちにさせない。

この四年ほど小さな合唱部をやっている。
ただただ音楽が好きだとか、みんなと歌ってみたいだとか、
この場が楽しいだとかその人なりの理由で集まってくれている。

音楽って人にとって一体どんな存在なんだろう。
私は自分が演奏者なので、音を出すということは当たり前だと思ってきたけれど、
ある人に「あなたは小さい頃からピアノを弾いて、
しかもそれを周りの人が(環境として)認めてきたから
音楽をやることは当たり前と思っているかもしれないけれど
わりと多くの人は本当は歌ってみたい、楽器を弾いてみたい、
でも音楽の授業で先生に言われたことがひっかかっていたり、壁があったり、
音楽の演奏そのものが遠い世界のものって思っているんじゃないか?」って言われた。

音楽が好きだからやる、有名になりたい、人前で音楽したい、人に聞いてほしい、
そんな理由も人によって音楽をやるモチベーションになる。

それとはまた別に、音楽を手段じゃなくて目的にするとどうなるかってこと。
音楽を目的ってどんなことなのかまだよくわかっていないのかもしれないけれど
音楽に自然の律が含まれているとするならば、それが目的になるってことも充分ありえる。
生物が子孫を残すために、たとえばその時期が来たら花を咲かせて種を作ることが普通であるなら
そんなことが音楽の中にあるのかな、とも。

自分という身体が、心が、もしかしたら魂があるのならば
それが音楽になったらどうなるんだろう。
それは音楽そのものを観察し、観察し、観察することでわかっていくことかもしれない。
(この場合の観察は音楽をよく聴くこと。そして考えて音を出すこと)
音楽聞いてるだけでシアワセー。それで十分なんだけどね、元々は。

2月は新月が過ぎ、雨水を過ぎ、新しい季節に近づいていく。

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節分と豆と冬の最後 [日々生活]

昨年末できなかった畳替えを何としても立春までに、と決め
家を片づけてなんとか間に合わせた。
(下見に来た畳屋さんが部屋から玄関までの通路に
あまりに物が置いてあるのを見かねて
「申し訳有りませんが畳が通れないので
それだけ片づけていただけますか?」
と言われたくらいの「家が倉庫状態」を無理やり片づけ
当日畳屋さんが感動したくらい(苦笑))
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そして昼間に時間ができたので目黒不動尊の節分祭に寄ってみることに。
3年前に初めてお寺の節分祭に行き、その雰囲気にワクワク!
その時に撒かれる豆(三角の袋の中に豆がいく粒か入っているもの)を
もらう、つまり撒いた豆がこちらにちょうどいい感じで飛んでくるというのは
結構な確率の低さだ。「多分豆をもらえるのはここにいる半分以下の人かー」
と思いその時はもういただけないかも、と思って「届かないよー」と心で言ってみたら
横にポトンと落ち、その後に手のひらにストンと手のひらに入った。
その年はそのストン、の感覚がずっと身体に残っていた。

そして、今年。
「天に花咲け、地に実なれ。福は内、福は内、鬼は外」と唱えた後に
始まった。
ご年配の方たちが撒いているせいもあるのか、遠いところにほとんど飛んでこない。
前の方に豆が落ちていく。
後ろにいる方たちは「もっと若い人にも撒いてもらわないと飛んでこないわよー」と
笑いながら言っている。
私も、これは無理だなーと思っていたけど、妙に気持ちが高揚するし
豆を撒かれているんだから、こちら側が鬼か?とか思いながらいたら
ポーンと遠くに投げられた3個ほどの豆。
無意識に斜め上に手を伸ばしたらポンと手のひらに当たり、手を瞬間的に閉じた。
なんかその手に入った瞬間の感覚が、あまりにも自然でびっくり。
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実はお寺に着いた時には複数の豆をもらえたらあの人にも、あの人にもあげたいって
思っていたけれど
その手に入った瞬間に「まず自分」という言葉が響く。

そうか、自分か。

そして、豆まき隊退場。
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他の人分はお寺で買った。ご祝儀(?)みたいなもの。
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帰りながら
いただくっていうのはもっと自然なことで
何かを取りにいくのとは違うこと。

そして自分の意思ではいただけないということ。
なんか妙にありがたくなった。福豆ということよりも
その偶然に、というか言葉が頭に浮かんだことも含めて。

私は特定の宗教を持つわけではないけれど
宗教を持つことが、その宗教の神に感謝することにつながるのであれば
それは人間を豊かにするのかもしれない、と宗教の存在の意味を感じた。

じゃあ感謝ってなんなの?って考えると
全てが当たり前ではないということに気づかせてもらう瞬間、みたいなこと。
おかげさまで、みたいなこと。

いつかわかるかな、感謝の肝。

で、帰りににゃんこがいい感じでゆるんでた。
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もうチューリップが出てきている。
節分は冬の最後。明日は立春。
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ちょっと遅れたクリスマスで [日々生活]

近所の魚屋でみつくろったムール貝、エビのカルパッチョ、ラムを買いに行けずのチキンのクスクス、近所のパティスリーの、天国にも昇るような美味しさのビュッシュドノエル(アミカルモン)、でご飯会。
ちょっと遅れてサンタさん登場?

なんてことを言ってるうちに大掃除の日がやってくる。2017年はあと何日?

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忘年会1 in 2017 [日々生活]

私が音楽のセミナーや植物療法のセミナーの教える・お伝えするということに関して
思いきり面白いことをさせてもらっているトトラボさん。
そのトトラボに集まる講師やマルシェで出店された方など トトラボファミリー(と敢えて言おう)が集まっての忘年会。

トトラボの村上志緒さんの起こすマジックに惹かれて集まる方たち。

トップダウン式ではなく、かといって横の繋がりというお友だち感覚だけでない ひとりひとりが独立した個でありながら 面白い場を共有していくという関係が、何よりも心地よい。

美味しいお食事(アッシュの広子さんとフロスヴィータの弥生さん担当)に お酒にデザート+楽しく笑い合う時間。

今年もここにいられてよかったなって感じる。


最後はクリスマスソングを歌って終わる。 恒例歌声喫茶「焚き火」。
↑トトラボとミウミュージックの年に何回かの歌声喫茶プロジェクト(笑)。

気持ちのよい夜でした。

来年のトトラボさんのセミナー、是非お越しください!


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トトラボでの講師のみなさま

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本日のメニュー

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フムスとカレー

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2017年おひなファミリー [日々生活]

今年もおひなファミリーがやってきた。
昨年は京式で右に男子、左に女子だったけれど
今年は今まで通りに戻してみた。

一年ぶりのファミリーは経年劣化、いやいや老化…もあったり
寝ぐせがついたりで年々手がかかる人たちに。

でも、前よりもこんな行事が大切に思うようになった。
春が近づいていることを、部屋に入る日の光の具合で実感したり
去年は、一昨年は、小さい頃はこの季節どんな心もちで暮らしていたのかと思うと
また今年もこうやって支度をしていることに小さな幸せを感じる。

こういうことの積み重ねなんだろうな、豊かさって。
そんなことにもっと早く気がつきたかったけれど
気がついたからいいことにしよう。

かなりイケイケなこの人たちに見えるから、持ち主を元気づけてくれることだろう。
よろしくね、おひなファミリー!

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反撃 [日々生活]

節分まではゆるゆる行こうと決めた年明け。
散歩中に「鳥なんて撮って何が楽しいのかしら?」と言われた年明け。
「鳥なんて、ねえ」と開き直る年明け。
とりあえず、楽しいのだ。それが何か?

まだまだワタクシ、冬眠中です。

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声にあるもの [日々生活]

細々裏々ながら、私はヴォイストレーニングを教えてる、というか生徒さん
(生徒、この言葉もなんか適切じゃないな)と一緒に発見していくというか、そんな感じ。

ピアニストだけど(まあ、歌も歌うんですが)
圧倒的に声のことをお伝えすることの方が多い。
ピアノはどこかで、曲を聴いて聴き込んで、自分で練習しようねと
思ってる節があるからか。

で、私のところに来てくれる人たち
前は歌を生業にしたいとかプロになりたいとかもっと歌をどうにかしたい
という方たちだったのが
いつのまにか、歌もそうだが声のことや身体のことに興味のある方が増えた。
声を聞くと何かが伝わってくる。←別に変な人ではないよ^ ^
その人にある、何か。
それは顔や外見とはまた違う、そして話し方とか滑舌の良さとかとはまた違う
身体から放たれる何か。
もちろん声帯とか身体の厚さとか呼気の大小とか、楽器の部分もあるんだけれど
それの使い方やその人の感覚やら何やらが垣間見える瞬間がある。
祝詞をあげる方、セミナーで話す方、ソーシャルダンスをやってる方etc...
興味深い方が来てくださって本当に面白い。

というか、真摯に毎日を生きている人たちと一緒に
その人の声について探っていく時間って本当に豊か。


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ひとりでまんなかを歩いた
気持ちよかった 晩秋


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音とピアノとこのところ [日々生活]

約2年前から考え出した音楽の講座はやっと第一歩を踏み出して
皆さんとともに種を蒔いた感じ。

何を元にやるかは決まっているけどどういうことをやるか、という
形を考えずに思考し始めたらまとまらなくなって、
しかもそれを無理やり講座という形にしようとすると全然違うものになるという
そもそも何がやりたいのか?とその辺りをぐるぐるとまわっていた。
その中で、無理やりの普遍性や共通性を見つけるということが
いかに雑な方法であるかを突きつけられた。
無理やりじゃない、見えてないだけで実はそこにある性質はふっとおりてくる。

そんな無理やりじゃないものが出てくるのに
2年もミーティング(という次元でもないが)につきあってくれたShioさんに感謝。
水曜日にその第一回が始まり来年の1月まで続くわけ。
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とりあえず一回めが終わったので頭を休めようと丸一日、本を読み音楽を聴く日を作った。
ちょうど週明けに図書館から約半年待ちの宮下奈都「羊と鋼の森」が入荷したと連絡がきた。

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話の内容は割愛するけれど、これはね、ホント、胸がじんじんした。
音を追い求めることってコツコツやることしかないと思う。
でも、その中で跳ね飛ばされたりなんだりする。
でも好きなんだからしょうがない。しかも出したい音に近づきたい。またコツコツが続く。
ピアニスト、調律師、観客の誰もが音を追う。
それがこの小説に見えて、聴こえてくる。
しかも講座で伝えたいことにちょっと近い部分があってそれにも共感した。
ちょうど講座が一段落して、この本がやってきて、タイミングの良さに
神さまっているのかもねと思ったり。


先日某ライブハウスで演奏した後、帰りの挨拶をしたら店長Yさんが
「あのさあMihoちゃんピアノうまくなったね。
こんないい方するのも失礼なんだけどさ(笑)。前進あるのみ!」って言ってくれて。
10年以上前の私を知っているからだけど、なんか火が灯った気持ちになった。


自分の指みて、ちゃんと弾けてる?って問いかける。
こんな私でもそう思うんだから、もっともっと高みにいる人たちの気持ちは
とてつもないレベルなんだろうなあ。
やはりピアノが教えてくれることはキリがない。

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